夏の過ごし方―人は会話に飢える動物
2019年8月16日
世界のいろいろな場所で、寝起きし、仕事し、些末な用事をこなし、子育てしたりなどしている皆さま、いかがお過ごしですか。
今、わたしは日本にいて、梅雨が明けたというのに、今日は梅雨のぶり返しのように雨が降っていて、そんな七月です。しとしとしとしと。これも風流ですね。(執筆中の7月中旬時点)
普段は禿げあがった茶色い山がそびえるロサンゼルスに住んでいるので、目に見えるものすべてが緑色(山も草も木も地面も)というだけで、その緑色が艶めくように濡れているというだけで、やっぱりうっとりしてしまいます。ああ、美しい。
しかし、蚊はいただけません。まったくいただけません。刺されまくりです。
上の娘が小学校一年生にあがる年齢から、アメリカから日本に帰るのは夏!と決め、それを実行して今年で二年目となります。
一時就学(ところによっては体験入学というらしい)というのは、たくさんの学びと、日本の教育の強点・弱点、アメリカの教育の強点・弱点を炙り出すものであり、「やってよかった一時就学」と毎度思います。
それもこれも、実家の親が健在で、元気に暮らしていて、帰る家があり、生活できる場所とインフラが整っているおかげなので、本当に親には頭が上がりません。
とはいえ、ぼおっとしていても良好な人間関係というものはただでは転がっていないので、親であってもやっぱり相応の努力が必要。そういうわけで、わたしの課題のひとつに「親との良好関係の維持努力」というものがあります。
仕事が差し迫っていようがなかろうが、家事におけるさまざま(買い物や皿洗いや洗濯干しや洗濯たたみや風呂掃除、室内の拭き掃除など)をなるたけ引き受ける。この家で暮らす人々が暮らしやすい空間を作ることに寄与する(散らかっていたら片づけるなど)。
また喫緊ではないが、やってほしいこと(例えば子機の充電池の交換、プリンターの購入、パソコン・スマホの疑問の解消、不用品を売りに行くことなど)を先送りにせずこのタイミングで率先してやる。
そして、それ以上に大事なことが、心地よい会話のコミュニケーションの体現です。
人という生き物は会話に飢える動物です。
夫婦が例えば30年40年、さらには50年も一緒にいれば、会話のパターンは限られ、関係性も固定化し、文句を言ったつもりはないのに相手には必ず文句に聞こえてしまう謎の現象なるものが起こったりもします。
そしてそれは一年に一度起きるというような生易しいものではない。ほぼ毎日です。ほぼ毎日。
そういう小さなことが積み重なると、それは絶望となり、絶望は諦めとなり、景色は灰色になったりもする。誰かに永遠にそれを話したくもなる。聞いてほしくもなる。
しかし、そういう相手ってなかなかいない。
そういう母や父と、わたしはそれぞれ対話し、彼らの膿を出し、あるならば解決方法を提示し、なくても一緒に考える、もしくは共感するという会話をおこなう。
気持ちはまさにカウンセラー。肝要なのは、相手のとなりに座って、縁側から同じ景色を見つめること。
この役割を言葉に例えるなら「風」でしょうか。
風の役割を担うことで、わたしはこの家に貢献していると(勝手に)思っています。
実質的家事も大事だし、孫との交流も大事だが、こういう会話の時間を確保することが、実は何よりも親孝行なのではないか、と思ったりもしています。
会話によってのみ癒されるものってありますよね。わたし自身、母や父と対話することで癒されているのもまた事実です。
今年も、残りの滞在があと少しとなってきました。夏が過ぎるのはあっという間です。
父も母もわたしも子どもも年をとる。明日が今日と同じように続いているなんて保証されていない。何が起こるか分からない。台風も来るし、地震も来るし、事故や病気だって。
わからないから、できることを、頭に思いついたことを、ひとつずつ毎日実行する。
小さな達成感を一日ごとに積み重ねる。自分は誰かの役に立っているのだという達成感を。
いい夏を送れたことに感謝。何ものにも代えがたい時間を、ここ福岡で過ごしています。令和元年、皆さまもよい夏をお過ごしください。
Written by 相薗淑子(アメリカ合衆国)