フィリピン・セブ島在住の新井ステラマリー明子です。今月から世界ウーマンコラムニストとして、執筆させていただくこととなりました。
セブ島に移住して8年。3人のシングルママとして子育て、仕事に奮闘しながらありのままの自分でセカンドライフを楽しんでいます。
第一弾は、私がセブに来ることになった経緯から、現在に至るまでを書いてみました。最後まで読んでいただけたら幸いです。
女優の勉強をしていた17歳の夏、日本で出会った外国人の彼にアプローチされ結婚をした。3人の子供にも恵まれ、若いママとして子育てに奮闘していたが結婚生活は波乱万丈なものだった。
相手のこともあるので詳しくはお話しできませんが精神的、身体的に限界に追い込まれた私は5年間の結婚生活に終止符を打ち、自分の力で子供たちを育てる事を決めていました。
3人のハーフの子供たちにはさまざまな価値観や多様性を見て育ってほしい。世界に大きく飛び出ってほしい。そして広い世界で自分の最高の人生を創り上げてほしい。そんな思いからまずは子供たちに英語を学ばせる必要があると思い続けていました。
思考は現実化する。頭の中で思うことは全てを引き寄せる。まさにその通りでした。
数週間後、フィリピン人の母から連絡がありフィリピンのセブ島でアパートメントを建てたいからセブ島に行くと連絡をもらった。人生を変えるなら今がタイミングだ。自分の直感に従って私は幼い子供3人をつれて南国の島セブ島に飛び立った。
2012年異国の空気が漂うセブ島に到着し、しばらく母の経営するアパートメントで幼い子供たちと生活していました。当時、私は22歳。長男4歳、長女3歳、次女1歳。
十代の頃にフィリピンに2年程留学していたおかげで、言語にはあまり困らなかった。しかしフィリピン人からすると私は帰国子女。
子供の学校ではママ友もすぐに出来て初めは楽しく仲良くしていたのですが、日本から来た余所者のシングルマザーということもあり裏で私のことを悪く言う者もいました。いわゆる日本のママトラブルみたいなことが起こりました。
当時の私はまだまだ精神的、人間的にも幼かったですし、周りに対して無防備なところが弱点となってトラブルに巻き込まれて、裏切られることもありました。めんどくさい人間関係に嫌気がさして、わたしはすぐに彼女たちと距離をおきました。
数ヵ月して環境を変えるべく仕事を探しを始めます。当時日本人の知り合いもなくSNSもあまり使いこなせていなかった私はインターネットで見つけた求人情報に履歴書を送り、採用されたことがきっかけで私と子供たちのライフスタイルは大きく変わって行きます。
Photo by Christian Paul Del Rosario from Pexels
セブ島というと大体の方のイメージは、留学、海やビーチ、リゾートが強いと思いますが、島を一つ渡るとそこには大きなモールやビジネス街もあって都会的な建物と東南アジア独特のローカル街が混じり合わさった異国感の広がる街並みがあります。
当時22歳のシングルマザーを採用してくださった会社は、セブシティーの中にあるビジネス街にオフィスを持つ日系企業で主にBPO、オンライン英会話を立ち上げている会社でした。
社会経験がないわけではありませんでしたが、初めて経験する仕事に戸惑いつつも運がよく素晴らしい上司や同僚に恵まれて楽しく仕事を覚える事が出来たのです。
しかしセブ島の現地採用の支給額は日本で仕事をして頂くお給料の半分以下でしたので、子供3人をひとりで育てなくてはいけない私には厳しいものがありました。
しばらく悩み半年以上したある日、一度日本に戻ることを上司に相談したところ、私の事情を理解しさらに私の可能性を信じて教育したいと考えてくださった上司たちに引き留めていただき、秘書としての役職まで頂いたのです。
ちなみに、セブ島にはベンチャー企業がたくさんあります。社会人未経験者でもスキルや人柄次第で雇ってくれるところもあるのでチャレンジ精神のある方は歓迎されると思います。
1年半がたち順調にキャリアを積んでいく傍らで、若いママとして3人の子育てと仕事の両立にはかなり苦戦しました。
セブ島では安くベビーシッターを雇うことが出来るので私がいない間は付きっきりで子供たちを見て頂いていましたが、知らず知らずのうちに子供たちは私よりもベビーシッターの言う事しか聞かなくなったり、私が家にいる時はわざと困らせてみたり、毎朝大声で泣きわめいたりして当時は何が原因かも分からず途方に暮れてはひとり泣く日々を送っていました。
また、女性がバリバリ仕事をすること、シングルマザーをあまり良く思っていなかった義理の父からも冷たい言葉や傷つく様なことも言われ続け、なんだか母親として上手く仕事と子育てのバランスをとれない自分にも失望し、シングルマザーとして自信を失い挫折していました。
仕事が終わってから人のいない教会へ行っては泣いて、泣き終わったら家に帰るという日々を繰り返していた事は忘れられません。
(次ページへつづく)
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