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なぜ恋愛はすれ違うのか?フロムの理論と「5つの愛の言語」で紐解く愛するということ

2026年4月22日
高倉舞 (イタリア)

「愛するということ」

近頃、よく考え、よく話すこのトピック。

2年前の冬、大学の授業で〈愛〉をテーマにプレゼンテーションを行った。

エーリッヒ・フロムの『愛するということ』を軸に、グループメンバーと熱心に考察を重ねたこともあり、常日頃からかなり忘れっぽい私でも、随分と印象に残っている。

こんな抽象的でやたら大きなテーマでも真剣に語り合えるのがICUの好きなところというのは、余談である。

当時は、彼の言葉はただ文章として並んでいるだけだった。

「なーんか難しいこといってんな」そんな浅い感想で止まっていた。

今になってようやく、経験が文字に追いつき、フロムの言うことに納得する部分が増えてきたように思う。

 

愛は「感情」ではなく「技術」なのか

恋愛市場が良い一例だと思う。

以前、大失恋をした時、長年の盲目的な片思いを見てきた友人に背中を押され、マッチングアプリをインストールした。

新しい出会いで手軽に上書きできる。現代的な処方箋だ。そして、実際に効果があった。

右、左、右、右、左。次々とマッチしていく快感。

「この人しかいない」と純粋一途だった乙女心は、星の数ほど登録されている人々と、目まぐるしく飛び込んでくる「はじめまして!」にかき消されていく。

やがて通知は鬱陶しいものに変わり、誰が誰だか、何を話していたのかさえ曖昧になる。

人への敬意は薄れ、最低限の礼儀さえ崩れていく。会話の途中で前触れもなく姿を消すことが、いつしか当たり前になる。

恋愛市場において、私たちは商品になる。

映りのいいプロフィール写真と、当たり障りがなく、それでいて気の利いた言葉を添えて、自らを売りに出す。

顔、年齢、学歴、年収、身長。これらの表層的な情報から判断し、それぞれが大好きな自分に値する〈商品〉を探し求めてスワイプを続ける。

 

「唯一の関係」が突きつける現実

イタリアに来て、恋人ができた。

これまでの私は、友情という関係の軽やかさに守られていた。

幾人かの友人がいて、相手にとっても自分は複数の一人であるという、そのやわらかい距離が心地よかった。

けれど、恋人という関係は、それとはまったく異なっていた。

互いが互いにとって唯一であるゆえに、関係は重さを帯びる。その中で、いつまでも自分の意志だけを通すことはできないのだと知る。

恋に落ちた2人も、やがて互いの気に入らない部分が見えてくる。

「私、これされるの好きじゃないんだよね」。その一言を伝えた時、伝えられた時、相手が傷つくと分かっていながら、なお自分を通すのだとしたら。

それはきっと、自分を最も愛している状態なのだろう。

「ふつうはこうだよね」という常識が通用しないのは序の口で、「自分がされて嬉しいことをする」という通説さえも、どこか危うい。

相手をよく見ること。反応を丁寧に観察すること。

みな、それぞれに感じ方が違う。そんな当たり前のことに気づかされる。

 

愛のすれ違いは「言語の違い」から生まれる

〈5つの愛の言語〉という概念をご存じだろうか。

ゲイリー・チャップマンによって提唱されたもので、人にはそれぞれ、愛の伝え方や受け取り方の傾向があるというものだ。

彼はそれを5つのカテゴリーに分けた。

1.肯定的な言葉(「好き」「ありがとう」といった言葉で愛情を感じる)
2.質の高い時間(ただ一緒にいるだけでなく、きちんと向き合う時間を大切にする)
3.贈り物(形のあるものに気持ちを見出す)
4.奉仕行動(相手のために何かをしてもらうことで愛を感じる)
5.身体的な触れ合い(触れることで安心や愛情を感じる)

同じ「好き」でも、言葉にしてほしい人もいれば、一緒に過ごす時間の中でそれを感じる人、小さな贈り物に気持ちを見出す人がいる。

個人的には、3の贈り物が自分の主要言語だと思う。恋人に限らず、手紙や花を贈るのも、受け取るのも好きだ。

恋人には事あるごとに贈るものだから、「僕も君に追いつかないと」と謎のプレッシャーを与えているようだ。

要するに、私たちは皆、同じやり方で愛をやり取りしているわけではない。

だからこそ、その違いを理解することが、関係を深める上で大きな意味を持つのだと思う。

 

愛するとは、相手に合わせて翻訳すること

そして同時に、されたら傷つく「dis-love language」のようなものも、確かに存在するのだと思う。

相手の嫌だと感じることを尊重できるかどうか。そして、それは「たとえ自分には理解できなくても」という前提を含んでいる。

相手のdis-love languageに気を配ること。

同時に、相手の何気ない行為を、自分の主要言語だけで「傷つけられた」と過剰に翻訳しすぎないこと。

私もバレンタインに花がなかったことで、随分と過剰反応した自覚がある。

そして、「君のことを大切に思っている」という気持ちを、相手のlove languageに翻訳して伝えられるかどうか。

それこそが、フロムの言う「愛するということは技術である」という言葉の意味であり、同時に、人間としての成熟に深く関わっているのだ。と、現在は解釈している。

そして、お互いのlove languageを時間を通して理解していくこと。その過程そのものが、「愛する」を深めるということなのだろう。

そんなことを帰り道に考えていた。

現在、インスタグラムでイタリアでの留学生活の様子や、日々書いているジャーナルノートを発信しています。ぜひ覗いてみて下さいね!

Written by 高倉舞(イタリア)

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