その後、縁あって両親と同じ福島出身の日本人男性と結婚することになりました。日系人とはいえ、国際結婚ですから、日本へお嫁に行くことは周囲を少なからず心配させたようです。
しかし、その時も母親だけは「やってみないとわからない」と、背中を押してくれたそうです。「後悔するより、やってみなさい」という母の言葉で、ナターリアは決心しました。
当時、日本の歯科医師免許を改めて取得しようとしていたものの、夫が国内転勤となり、東京を離れることになりました。仕事と結婚生活、色々考え、結局結婚生活を選び、まもなく妊娠しました。
喜びとは裏腹に、それまでの忙しい日々に反して有り余る時間は、ナターリアの気持ちを落ち込ませました。
自分があまりにも無力に感じられ、切磋琢磨していた同僚達はみんなどんどん成長して活躍していくのに、自分だけが取り残された気持ちだったそうです。
「置いていかれる」自分だけが、この世の中から取り残された気持ちになったそうです。この気持ち、私も海外帯同中に味わいました。アイデンティティクライシスです。
「私は幼稚園児以下だ、ここでは何もできない」と自己肯定感の下がる中で、日本語だけは猛勉強して、検定1級に合格しました。
今よりもっと、外国人を受け入れることに慣れていなかった時代に、日本の地方都市で暮らすことが、どれほど大変だったか、想像するに余りあります。
キャリアを諦めて家族のために頑張ることを心に決め、ナターリアは日本の暮らしに溶け込もうと努力しました。
結婚する時に父が言った「苦労するよ」の言葉がよく分かったけれど、「できないと言いたくなかった」と言います。凛とした意志が感じられる言葉です。
もしかしたら、同じ外国暮らしでも他の国ならもう少し楽に暮らせたかも知れません。日本の社会は特殊。父の言う難しさを痛感しながら、お弁当作り一つにしても、自分で調べて何とかやり切りました。
「あそこのお母さんは日本人じゃないから」と言われ、夫や子供に迷惑をかけることだけはしたくなかったと言います。
そんな時、常に心の支えは母の存在でした。夫に従い海外暮らしをしていた母への尊敬の想いが膨らみました。
ブラジル人はおろか、外国人の知り合いが1人もいない日本社会で、不思議に思ったことがあります。日本の社会は、コミュニティ単位で動くということにビックリしたそうです。
しかも、コミュニティの運営では全員の意見を満遍なく聞いて、なんとか平均を取ろうとするやり方に、ブラジルや欧米諸国は個人単位だったため、不可能だと感じたようです。
それでもコミュニティに参加して子供会の役員もこなし、3人目の子育てをする頃には、ママ友達との会話はつまらなく思えてきました。