
世界ってなんだろう。
平和ってなんだろう。
以前、友人が言った。
「あなたや誰かが見ている世界を知りたい。どういう景色が映るのか。世界は、世界の集合体でできている気がするんだよね」
私は彼に返す言葉が見つけられなかった。
いや、言葉が見つからないというより、そもそも言葉をあてるべき概念自体を掴めていなかった。
「考えてみるね」と言い残し、その日の会話をなんとなく終わらせてしまった。
これを書いている今日とて、答えという答えが明確に得られているわけではない。
ただ、朧げな何かがどことなくそこにあるような、そんな気がしてきただけだ。

「世界平和」
あまりに大きくて、自分の手には負えないように感じてしまい、少し逃げたくなる言葉だ。
昨今の情勢もあり、特に叫ばれているように思うこの言葉を、分解してみたい。
まず、「世界」。
これならちょこっとばかり、分かる。言葉をあててみる。
小さい。きれい。美味しい。のんびり。あせあせ。甘い。好き。きらい。ちょっぴりかなしい。
家族と、友人と、恋人と。両手以上、両手足以下の限られた大切な人がいて、それ以上でもそれ以下でも決してない。
私の日常は、その小さなコミュニティの中で完結している。
これが、私の生きている「世界」だ。
こんな小さな世界でひとり満足してしまっている私には、世界の戦争がどこか遠い。
私の想像力は、世界規模の出来事よりも、身近な場所に引き寄せられて離れていかない。
私の目に強烈に映るのは、この街で暮らすホームレスの姿だ。
「少なくとも彼らは、命を失う危機にさらされているわけではない」。そんな返答が返ってくるのだろうか。
ただ、路上で生きる彼らがどうしても他人と思えない。
自分は生まれ落ちた環境が良かっただけ。人間は環境による産物だと固く信じる私は、自分と彼らが地続きになっているように感じてならない。
何かが違えば、簡単に路頭に迷っていただろうな、と率直に思う。
彼らと自分。切り離して考えることができない。
自分がいつかそうなった時、優しくしてくれる人はいるのだろうか。そんなことを考える。

先日、学校の帰り道、たまたまコインを多く持ち合わせている日があった。
そして、その日は合計で4人のホームレスに出会った。そのうち3人は犬を連れていた。
フィレンツェでは、犬を連れているホームレスの人は驚くほど多い。
犬の餌代もばかにならないだろうに。そう思っていたが、確かにお金を渡す側としては、犬を連れていた方がどこか行動を起こしやすいと感じるのも事実だと思った。
そして、多くは段ボールのメッセージに「私と、そしてこの犬のための餌代に」と書かれている。
授業で購入を言い渡された本を探しに、その日3軒目の本屋へ向かう途中、かわいらしいマルチーズを連れている人にお金を渡した。
その時、ある種の憐憫の念を覚え、財布に残っていた小銭をあらかた差し出した。
空になっていたカップ。芸術の都フィレンツェでバカンスを楽しむ人々。その傍らで地面に段ボールを敷き、お金を乞う人々。
その強烈なギャップに戸惑いが残りつつ、本屋へ向かった。
目的の本を無事に買い終え、また同じ道を戻る途中で彼に挨拶をした。その時、彼の手に大量のコインが握られているのが見えた。
あのカップ。あの空のカップは、誰も彼を無視してお金を渡していないわけではなかったのだ。
私が勝手に悲劇のストーリーを作り上げ、同情していただけか。いや、同情したかったのか。
みんなそれぞれ、たくましく生きているんだな。彼は今日もルイヴィトンの前に座っている。

平和を考える時、飽きずに毎度思い出す言葉がある。
「家に帰って、あなたの家族を大切にしなさい」。マザー・テレサの言葉だ。
「平和のために何かできることはありますか」と聞かれた時、そう答えたそうだ。
人それぞれ、帰る家、大切にしたい家族の形は違うのだろう。
クラスメートが落ち込んでいると聞いた午後。帰り道のスーパーで花が視界に入ってくる。
どの花が彼女らしいか考えること。それを買おうと思うこと。実際に買えること。渡せるということ。
私の世界と、彼・彼女の世界がつながっていて、影響し合う。
みんなが自分の「世界」にいる人に愛を手渡すだけでも、世界はだいぶ丸くなるように思う。
友人の言った「世界は世界の集合体である」という言葉は、なんだかとてもしっくりくる今日この頃だ。
何が正解なのかは分からない。このコラムが、友人が私に問うた答えになっているのかも分からない。
それでも、曖昧な何かが、曖昧なまま伝わってくれたらいいと思う。
現在、インスタグラムでイタリアでの留学生活の様子や、日々書いているジャーナルノートを発信しています。ぜひ覗いてみて下さいね!
Written by 高倉舞(イタリア)