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私と仕事の関係修復ジャーニー。仕事って温かい世界だったんだ

2021年8月7日
野林薫 (オーストラリア)

仕事と共に歩んだ道のり

オーストラリア、シドニーに住んで14年。私のシドニーでの職歴は、調理師、デパート販売員を経て、現在、メンタルヘルスサポートワーカー。

今ここに来て、ようやく自分の今の仕事と過去の仕事達に心から感謝できるようになった。これは私の人生において「革命」のような気がしている。

日本に住んでいた頃は転職経験ゼロの金融OLだった私。「終身雇用」が当たり前の事として世間で謳われていた時代に高卒で就職。「銀行は安定してるから」という周りからの言葉も、何の抵抗もなく心に入ってきたあの時代。

高校の就職課の先生から指示されるままに金融機関を選択し、まだまだ幼稚な精神を引きずりながら1984年に新社会人となった。

「あなたの性格は金融機関が受かりやすいから」という、なんだかいまいちピンとこないお言葉を高校の就職課の先生からいただいた当時の私。

「ノルマがあるから金融機関じゃ働きたくないんだけどなぁ」と心の中で願っていたにもかかわらず、流されるままに面接を受けて内定をもらってしまった。

そんな「イヤイヤ気分」を心に掲げてスタートを切った私の金融OL人生。就職して半年経つか経たないかの時、母に泣きながら「もう行きたくない。辞めたい」と言ったあの朝のことは生涯忘れる事はないだろう。

そこからよくもまぁ20年も居座ったもんだよな、と我ながら笑いが込み上げてくる。しかし、私の金融OL人生の結末は決して爽やかなものではなかった。

過去の私は仕事に感謝したことなど、全くと言っていいほどなかった。仕事はいつも私にとって「重荷」でしかなかった。

常に仕事に対して不平不満を持ち、何の感謝もしていなかったせいで心も体もクタクタになり、何の目的も希望も抱くことなく、長い間お世話になった職場を去った。達成感もたいした喜びもなく。

 

異国で働くことを選んだ瞬間に輝いた光

仕事を辞めて無職になったものの、「再就職しよう」という意欲さえ全く湧かず、失業保険をもらいながら無気力に日々を過ごした。

その後日本で再就職することなく、オーストラリアのパースでの語学留学をスタートさせ、そこでオーストラリアの魅力に取り憑かれた私。

あれから現在に至るまで、仕事を通して数え切れないほどの貴重な経験と学びを得る事ができたと心から思う。

シドニーのホスピタリティーの学校で調理師資格を取り、その資格を使ってオーストラリア永住権を取得することを決めた。調理師になり、オーストラリアの永住権を取得するには、一定期間の調理師としての就労経験が必要だった。

その当時42歳目前だった私は、学校とレストランのアルバイトに自分の体力が持つか不安もあったが、喉から手が出るほど欲しかったオーストラリア永住権のために調理師になることを決意した。

料理に対する情熱などは全く持ち合わせていなかったのだが、ただこの時違っていたのは、不安と共に抱えていた「オーストラリア永住権」という光り輝く目標だった。

この光こそが不安を遥かに超えて、私を調理師への道へと突き動かしてくれた。そしてこの調理師として働いていた時期に、私の「仕事に対する視点」に変化が起こった。

私が調理師になったのはオーストラリア永住権を取得するため。生まれて初めて明確に意識した、「私が働く理由」。「オーストラリアの永住権を取るためにはこの仕事をやるしかないんだ」という確固たる思い。

そしてこの事が私に「同じ目標を持つ仲間」という素晴らしい贈り物をくれた。

体がクタクタになっていた時に、ネパール人同僚がグラスの水にライムをたっぷりと絞り、そこに塩を入れて「疲れてるの?これ飲んだら元気になるよ」と差し出してくれた。彼の優しさは今でも私の心に滲みている。

学校とレストランのバイトに明け暮れて、自分の身なりに構う余裕を失ってボロボロになっていた時、関西出身の男性同僚から「姐やん、あかんでー!姐やんには綺麗でいてほしいねん!」とストレートパンチをくらったことは今でも笑える思い出。

調理師として働いた頃の思い出は全て、「楽しい仲間達」の存在と共にある。

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