今回は、茶道の弟子仲間だった荒井えみかさんにインタビューをさせていただきました。
自然体でいつも気負いのないスタイルで、日本の文化、そして世界の情報にも敏感。帰国子女であることに秘密があるのでは?と前々から思っていましたが、インタビューを申込み、じっくりお話を伺うことができました。
海洋問題は今、世界中が注目していますが、私含め、認識不足の方も多いのが現状。この話題がより身近になるよう、私達が日常生活でできることなども教えていただきました。(ホーゲデウア容子)
容子:先ずは、簡単な自己紹介をお願いします。
えみか:荒井えみかです。現在、海洋環境問題解決を目指すセイラーズフォーザシー日本支局プロジェクトマネージャーをしております。生まれは東京です。
中学生になる頃、父の転勤に伴い、サンフランシスコ近郊で、1983年から1988年まで過ごしました。中高生時代をアメリカで過ごす中でより日本文化に興味を持つようになり、茶道のお稽古を始めて四半世紀、お稽古を92歳まで続けていた祖母の姿に近づくことが目標。家族との時間、建築、北欧、カフェなどが大好きです。
容子:海外にご縁のあるご家族だったのですね。
えみか:父は大学在学中から英語が堪能、母は英文科出身でスチュワーデスでした。両親は1965年頃から1970年頃までニューヨークに駐在していました。伯母は奨学金でアメリカに留学していて、母も希望していましたが、祖父が心配し過ぎて末っ子だった母は断念せざるを得ず、アメリカ駐在はとても嬉しかったみたいです。
サンフランシスコ駐在は、私と姉は中学生、一番上の姉は高校生だったので勉強はとても大変でしたが、色々な面でサポートしてもらいました。週に3回、家庭教師に来てもらい、三人姉妹で順番に準備ができた人から宿題を見てもらったり、両親も一緒に、全員でダイニングテーブルで宿題をやる日もあったり、夕食後はテニスをしたり、家族の絆は深まりました。
サンフランシスコで、家族と共に
容子:みんながダイニングテーブルで、オープンに勉強を一緒にされていたのですね。大変ながらも、勉強に対してもみんなで前向きで素敵ですね。
えみか:実は私は全然前向きでなく、怠け者の方で、英語のサポートのクラスにいました。様々な国、環境の違う生徒達のいるインターナショナルな環境は、貴重な体験になりましたし、楽しかったのです。
でも2年もすると、「地元生徒の普通クラスに入らないと英語が伸びない」と親が学校のカウンセラーに直談判しました。家庭教師も同席してもらい、勉強しっかりさせますからと。私本人は、「えー、大変そう、ここで幸せなんだけど、、、」なんて思っていたのですが、今思えば良かったですね。
容子:この貴重な高校生活の後、日本に戻られますが、この経験で大きな影響はありましたか?
えみか:アメリカの生活は楽しかったのですが、自由すぎて、逆に日本の制服とか、かわいいハンカチや小さな雑貨に拘っているところなどに憧れていました。アメリカ人は喜怒哀楽をそのまま表現する人が多く、それが苦手だった自分は、穏やかで控えめなものに惹かれていきました。
容子:この時期に、日本人としてのアイデンティティーが確立した感じですね。大学は、早稲田の建築学科に行かれたんですよね?
インターナショナルなクラスメートと
えみか:高校2年の時にフランス語のクラスで、著名なアーティストを調べる課題があり、「コルビュジェという建築家を調べたら?」と母の助言がありました。その時の課題の勉強はとても面白かったのを覚えています。
日本に帰国する際、大学の帰国子女募集枠の冊子に建築学部を見つけ、建築って学問があるんだ!と初めて知り、勉強してみたいと思うようになりました。
それが本当にきっかけになり、最初の仕事は建設会社で最初の5年間は設計部、最後の2年は建築に関する展覧会などを主催する、広報部所属のギャラリーに勤めました。