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シチリアに住んだ偉大な明治の日本人女性画家、清原お玉(ラグーザお玉)

2021年10月30日
桜田香織 (イタリア)

パレルモ出身の画家ヴィンチェンツォとの出会い

シチリア島のパレルモ在住、桜田香織です。気が付いたらイタリアでの生活も30年近くになり、フィレンツェからシチリアへ移って20年が過ぎました。

日本の会社を2年休職して留学、その後一度帰国して退職し、イタリアへ戻った私です。当時会社の同僚や友人達から「安定した生活を捨ててイタリアで住む決心をしたのは、勇気がある」と言われたものです。

しかし、私とは比べ物にならないくらい勇気のある女性が存在していました。それも今から140年近く前に。「清原お玉」という日本人画家がその方、簡単にご紹介致しましょう。

時は明治、長い鎖国も解かれ、日本が西洋に目を向け始めた頃の時代です。モーパッサンやディケンズが和訳されたのもこの頃です。そして東京で「工部美術学校(東京芸大の前身)」建設にあたり、西洋から様々なアーティストが呼ばれました。

その中にパレルモ出身のヴィンチェンツォ・ラグーザと言う彫刻家がいました。彫刻家でありながら絵画の技術にも長け、既に伝統的な日本画を学んでいたお玉に遠近法、陰影法など、西洋の技術を教えたのが2人の出会いです。

1876年の出来事。当時ヴィンチェンツォは35歳、お玉はたったの15歳でした。

 

パレルモに美術学校を開設

学校内に「お玉と日本」をテーマにした美術館を設立準備中とのこと

滞在中に日本の工芸品を買い求めていたヴィンチェンツォは、お玉にそれらのカタログとしてのデッサンを依頼し、2人の中は急速に近付きました。

その後彼の在日任務が終了した1882年、お玉は彼について日本を離れます。2人でパレルモに居を構え、洗礼を受けてエレオノーラ・ラグーザとなり、パレルモ市内に美術学校を開設します。

水彩、パステル、油絵、フレスコ画など、幅広い技術を身に付けたお玉は、1927年にヴィンチェンツォ死去した後もパレルモに住み続けました。

1931年に姉のひ孫が40日間の船旅の末パレルモに到着。目的はお玉を日本に連れ戻すためでした。

ひ孫はイタリア語を習得し、数年間お玉と暮らし、最終的に帰国したくなかったお玉を説得して1935年に帰国します。お玉はその頃には日本語をほとんど話せなくなっていたと言う事です。

お玉はなんと51年もの長い歳月をパレルモで過ごしたのです。そして帰国後間もなく1939年にこの世を去りました。

彼女と夫の作品は多く残っており、上野国立博物館にも展示されることがあります。パレルモでは近代美術館に数多く保管されていますし、現在のパレルモ市長の自宅には、彼女の描いたフレスコ画があるそうです。

 

明治時代の15歳の決心に想いをはぜる

お玉について書かれた本。翻訳者には筆者の名前も

10年くらい前にそのひ孫の娘さんと知り合い、色々話を伺いました。彼女はお玉の生涯を研究し、本を出版しようとしていましたが、その後体を壊して音信不通になってしまいました。

明治時代、まだ15歳だった彼女と20歳も歳の違うイタリア人との出会い、そして渡伊の決心。彼女はどんな気持ちで決めたのでしょう?また、ご両親やご家族の気持ちはどうだったのかと考えてしまいます。

現在は世界も狭くなり、選択肢も増え、やってみてダメならやり直せば良い、ある意味やり直すことができる時代ですが、その頃は一度海外へ出たらそうすぐに戻ることはできません。家族の声を聞くこともできません。

一生のお別れという覚悟があったのでしょうか?

現在コロナで私は3年以上帰国が叶わず、かなり「日本が恋しい」病にかかっています。それは時代が便利になり、飛行機に乗ればスッと一飛びで移動できることを知っているからなのでしょうか?

私の一大決心と彼女のそれとは、重さが全く違うように思えます。

世の中が便利になるのに反比例して落ちていく能力は、待つこと、忍耐なのではないかと思う今日この頃です。ご意見をお聞かせください。

Written by 桜田香織(イタリア)

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