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コラボレーションによって日本のよさをマレーシアの人々に伝える「わたしの仕事」

2021年8月25日
土屋芳子 (マレーシア)

現在の仕事につながるこれまでの経験

こんにちは。もう3か月以上もロックダウンが続くマレーシアから、「わたしの仕事」について書いてみたいと思います。

2014年からマレーシアに住んで、8年目になります。思い起こすと、大学卒業後に「好きなこと」をはじめ、仕事としてやっているうちに気付いたら20年経っていた、という感じでしょうか。

もともと海外旅行が大好きだった私は、「世界中を飛び回れる仕事」というのをテーマに大学時代に就職活動をしていました。そこで最初に就職したのが、東京にある食品専門の通信販売卸し会社。

世界中のおいしいものを見つけ、企画し、仕入れ、売れるための撮影やコピーライティングをし、メディアを通して商品の魅力を伝え、販売する、という流れ全般を経験しました。

少人数の社員、数億の年商だった小さな会社はみるみるうちに成長し、急激な成長の中で、企画からクレーム処理、在庫管理など、会社としての業務全般をひととおり経験させていただいたことが、次につながります。

このときに身につけたスキルや経験をもとに、2004年にフードコンサルティング会社を立ち上げました。このときから今にいたるまで、約17年間、フードコンサルティングに関わる仕事をしています。

会社を立ち上げ、スタッフゼロ、お客ゼロから軌道に乗るまでには、もちろん数々の失敗もありましたが、同時に、すべての責任を自分で負うということが自分を成長させてくれ、マインドを鍛えてくれたと思います。

有難いことに人に恵まれ、WIN&WINを念頭に走り続けることができました。売り上げが少ない月には不安で押しつぶされそうになったりもしつつ、年数を重ねていると、経験値が上がってなんでも慣れるものですね。

 

マレーシアと日本とのちがい

海外に拠点を広げたいということと、息子の教育のために、2014年にマレーシアのジョホールバルに母子で移住しました。最初の2年は、すべてが新鮮で、何もかもが楽しくて、やる気に満ち溢れた日々だったと思います。

知り合いゼロ、なんのツテもないのでがむしゃらに、自分のできるフードコンサルティングやマーケティングリサーチの営業を試行錯誤しながら行い、ハラルのラーメン屋さんの立ち上げと運営のお手伝いなど、人とのご縁から生まれた仕事をさせていただきました。

でも仕事となると、やはり日本とは物価も文化も違うマレーシア。日本での感覚をゼロにして、マレーシア流で物事を考えなければ先に進めず、フラストレーションが溜まることも数知れずありました。

マレーシアでは形の見えないもの、たとえば情報とかサービスとかレシピとか、そういうものには日本ほどお金を払うという感覚はないように見受けられます。コンサルティング業として売り上げを上げるのはかなり大変です。

また、売れるものがあったらすぐに真似して自分のものとして売ります。お金になりそうなものにはすぐ飛びつき、すぐにお金にならなければ撤退も早い。

そのスピード感は尊敬するほどですが、長期間かけてじっくりとビジネスを育てるという感覚はあまりないと感じます。日本式の、丁寧でじっくり育てていく感覚が身についていると、このスピード感に慣れるのがたいへん。

人件費は日本の1/3と一見安そうなのですが、スタッフの能力に関わらず、休日出勤だと時給は3倍とか、寮代も払わなければならないとか、保険代や福利厚生費などが想像以上にかかります。

一生懸命走っても物価の違いで売り上げはわずか。なかなか思うようにいかなくて、その後1,2年は仕事について何もやる気が出ず、でも焦りの気持ちも生まれず、とても不思議な期間が続きました。

大学を卒業して就職してから、ずっと仕事へのモチベーションが高かったので、こんなにやる気にならないというのは初めての体験でした。

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