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第五福龍丸を知っていますか?忘れてはいけないマーシャル諸島で起こった悲劇

2024年5月6日
岩井真理 (日本)

その名も「水爆ブラボー」

皆さんこんにちは。世界中どこにいても輝けるキャリア&ライフを応援するキャリアコンサルタントの真理です。

今回は特別編として、「人類のしたこと、平和について」少し考えてみたいと思います。

私は世界ウーマンファウンダーの藤村ローズさんからお声がけをいただいたことから、東京にある「都立第五福竜丸展示館」という施設を訪問することになりました。

皆さんは、第五福竜丸を知っていますか?戦後間もない1947年(昭和22年)に和歌山県でカツオ漁船として建造され、後にマグロ漁船に改造され遠洋漁業で活躍した船です。

そして、1954年(昭和29年)3月1日未明に、この船に悲劇が起こりました。

太平洋マーシャル諸島にあるビキニ環礁で、アメリカが行った水爆実験によって「死の灰」の被害を受け、23人の若い船員達が被爆したのです。

その名も「水爆ブラボー」。威力は広島原爆の1000倍、高く巻き上げられはキノコ雲は、粉々になった環礁の内海、浅瀬の珊瑚など強い放射能を帯びた物質を吸い上げ、広範囲にわたり降下性放射物質を撒き散らしたのです。

 

ただ漁をしていただけなのに一瞬で被爆者に

当時、第五福竜丸は、漁に備えて休息中。アメリカが定めた危険区域から30キロ以上も離れたところにいましたが、突然西の水平線の彼方が明るくなり、数分後に大きな爆発音が海底から突き上げるように轟いたと言います。

漁を始めて2時間ほど経つと空から白い灰が降ってきて、漁師達の服や皮膚に付着し、少し経つと雪が降り積もったように甲板も真っ白になったそうです。

その晩から漁師達は吐き気や頭痛にみまわれ、数日すると灰が付着した皮膚は火傷のようになり、髪も抜け始めました。「急性放射能症」でした。

ただ漁をしていただけなのに。平均年齢25歳の若者達は一瞬のうちに、被爆者になってしまったのです。

日本に戻ってから入院し半年後には、久保山愛吉さんが亡くなられました。現在でも23人中2名の方がご存命ではあるものの、多くの人が治療で受けた輸血によりC型肝炎に感染し、その後肝臓ガンなどに罹患して命を落としています。

第五福竜丸に限らす、南の海で漁をした850隻以上の船からも放射能で汚染された魚が出て、それらは政府の検査の結果、捨てられました。実に485トン超を廃棄しました。

国民生活にも大きな影響が出て、魚離れが始まり、加工したかまぼこなどでさえ嫌厭し、魚価が下落しました。また、雨の中に放射能物質が検出され、人々は不安な日々を過ごすことになりました。

そう言えば、子供の頃、祖母が「雨に濡れると髪が抜けるから、ちゃんと傘やレインコートを使うように」と何度も言っていたことを思い出しました。この悲劇が巻き起こした被害のことを言っていたのです。

 

悲しい出来事が二度と起こらないよう

その後、第五福竜丸は放射能の安全性が確認され、「はやぶさ丸」という練習船に改造されて東京水産大学で使われていましたが、1967年(昭和42年)に廃船処分となり、東京のゴミ埋立地・夢の島に捨てられました。

しかし、遠洋漁業に出ていた木造漁船の実物を知ってもらうと共に、このような悲しい出来事が二度と起こらないようにという願いを込めて、1976年(昭和51年)に東京都により夢の島公園内に展示館が建てられました。

春の陽射しが優しい平日の昼過ぎに、私はこの展示館を訪ねました。「新木場駅」から夢の島公園までは、徒歩10分ほどです。

公園内には競技場や熱帯植物園、ヨットが停泊しているマリーナもあり、その一角に展示館はあります。この空間だけを捉えると、実に平和でのどかです。

船が展示されている建物は、教会のような三角屋根が木々の間から覗き、遠くからでも目立ちます。

展示館に入ると、吹き抜けの天井に向け、そびえ立つように第五福竜丸は置かれていて、圧倒されました。

入口近くには、その歴史や展示物の説明をする音声ガイドがありました。入場無料の都立の施設のためか、小中学生の来場も多いようで、解説もわかりやすく書かれています。

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