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1月26日はオーストラリアデイ。建国記念日に浮かび上がるオーストラリアの光と影

2023年2月8日
野林薫 (オーストラリア)

真夏の青空の下、賑やかに祝うオーストラリアデイ

今年もたくさんのお祝いイベントが盛大に開催されたオーストラリアデイ。私が住むシドニーでもこの日、イベントが朝から晩まで目白押しで、街にはたくさんの笑顔が溢れていた。

早朝にはアボリジニ民族によるセレモニーのダンスが披露されたり、オペラハウスに美しいアボリジニアートのマッピングも投影された。

シドニー湾にはたくさんの船が浮かび、海軍の船団ショーが行われたりと、この日でなければ見ることができない光景を目にする日でもある。

夜はオペラハウスそばに設置された特設ステージで、オーストラリアで人気のアーティスト達がライブコンサートでお祝いムードを盛り上げる。人々はフィナーレの花火まで歌って踊りながらオーストラリアデイを祝うのだ。

夏休み中ということもあり、たくさんの家族連れの姿も街に溢れるオーストラリアデイ。

オペラハウスやシドニーハーバーブリッジ、大きな船に歓声を上げる子どもたちの笑顔が平和なムードを醸し出してくれる。

 

オーストラリアデイが1月26日に制定された理由

さて、ここでオーストラリアデイが1月26日に制定された理由に少し触れてみよう。

フィリップ船長率いるイギリスの船団が初めてオーストラリアに上陸したのは1788年1月26日。この日、フィリップ船長と彼のクルーによりシドニーの入江にイギリスの国旗が立てられたのだ。

この日を境に1901年まで、オーストラリアはイギリスの統治下としての歴史を歩むことになったのである。

ここで忘れてはならないのが、先住民のアボリジニ民族の存在だ。

アボリジニ民族はこの土地で狩猟民族として6万年以上住んでいると言われている。すなわち、フィリップ船長達が、「この土地は今日からイギリスのものだぞ!」と宣言した日より遥か遠い昔から、彼らはこの土地で彼らの文化を子孫たちに継承し続けながら生きていたのである。

そこにいきなり上陸してきた見たこともない人間達に、イギリスの生活文化や法律を強いられることになったアボリジニ民族。奴隷制度、差別制度、白人化政策、虐殺など、当時は人間として扱われることなどなかったアボリジニ民族。

1788年1月26日はアボリジニ民族にとって、生き延びるため、彼らの文化や子孫を守り抜くための戦争が始まった日なのだ。

 

オーストラリアデイのもう一つの風景

この日、オーストラリアの都市では大規模のデモ行進が行われていた。

サバイバルデイ、侵略の日、喪に服す日、殺りくの日、1月26日は決して「祝う日」ではないと、怒りの声を上げながらデモ行進するアボリジニ民族の群衆と彼らのサポーターたち。

私のギリシャ系オーストラリア人の同僚が、「私、子供の頃オーストラリアデイって大嫌いだったの。だって、街に行くといつもアボリジニ民族がすごく怒ってて本当に怖かったの」と言っていた。

彼女たちが子供の頃、学校でアボリジニ民族の歴史が子供たちに教えられることはなかったために、なぜ彼らがあんなに怒っているのか、彼女には皆目見当がつかなかったそうだ。

現在では、アボリジニ民族の歴史や文化、そして彼らの文化や人権を尊重する啓発活動や教育が盛んに行われている。

2008年2月18日、白人化政策の犠牲となった無数のアボリジニ民族達に正式な謝罪を表明したオーストラリア政府。私が記憶するに、この頃あたりからアボリジニアートやアボリジニ民族の歴史を示すものが街に少しずつ設置され始めた。

オーストラリアデイも、「お祝い」と「喪に服す日」の2つの意識が政府から国民に啓発されるようになった。

2つの全く異なる思いがオーストラリアデイで渦巻いている中、移民としてオーストラリアを「一つの国」として愛して止まない私は、この日街のどこかでふと見かけた「Unity」という言葉が目に焼き付いているのである。

Written by 野林薫(オーストラリア)

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