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移民1.5世代が面するセルフアイデンティティクライシス

2023年2月22日
林いくえ (カナダ)

家族6人、知り合いがいない日本へ移住

私が小学校2年生だったある日、「もうすぐ日本に行く」と両親に告げられました。当時の私が「日本に行く」ということはどういうことなのか、きちんと理解していたかどうかはもう覚えていません。

今でもはっきり脳裏に浮かぶのは、祖父母の「三合院」と呼ばれる伝統的な台湾のU字型の家の中庭で、日本語の50音を覚えたての母が、小さな椅子に座る私と妹、そして近くに住むいとこたちの小学生5人に、ひらがなを教えていた光景です。

気が付けば、台湾から遠く離れた青森県最北端の町で、私達家族6人の異国生活が始まっていました。

自分たちのルーツを忘れてほしくない両親は家の中では台湾語で会話し、父は「台湾人であることを忘れるな」と常に言っていました。

その上、周りに他に外国人がいなかったこともあり、日本に住んでいた間、私は自分が日本人ではないということをとても意識していました。

ところが、毎年の冬休み台湾に里帰りすれば、「君たち日本人は…」と親戚からは日本人扱い。「私って何人?」と分からなくなってしまいました。

どこにも自分の居場所がないような気がして、台湾人とも日本人とも100%自信を持って言えない自分が誰なのか、長い間自分の中でモヤモヤしたものがありました。

今だからこそ分かるのですが、まさに移民1.5世代が面するアイデンティティクライシスだったのです。

 

移民1.5世代の私達が面した葛藤

中学生の時、「台湾のことをクラスのみんなに紹介しないか?」社会の先生からこのようなお声がけがありました。

私達のことを知らない人はいないという人口数千人の町に住んでいながら、台湾人であることを公にしたくないというティーンエイジャーの繊細な気持ちが強かったのでしょう。私は「いいえ、結構です」と断りました。

今思い返すと、とても貴重な機会を断ってしまったと後悔していますが、当時は自分が台湾人であることを強調したくなかったのです。

弟もまた小学校高学年くらいから、その葛藤は大きかったようです。

家では「台湾人であることを忘れるな」と言われるのに対して、学校では「台湾人」といじめられ、仲間外れにされていたようでした。

両親には何も言わず、弟は一人で苦しみ、大学生になってとうとう結構重症のパニック障害を起こし、家から出られない苦痛と7年間闘いながら通学し、大学を卒業することができました。

私はすでにアメリカに留学していて、この話は大人になってから本人が話してくれたのですが、想像もできない辛さを一人で抱えていた弟のことを思うと心が痛みます。

 

Melting Potのアメリカで見つけたもの

アメリカ留学でのクラスパーティー(1994年)

そんな葛藤を抱えながら、私は高校を卒業するまで日本で11年間生活し、その後アメリカに留学したのですが、渡米は大正解でした。

移民の国アメリカは、私と同じ「外国人」だらけでした。自分と同じ状況にいる人が周りに溢れるほどいて、自分が「何人」なのか全く気にならなくなりました。

そして、新しく学んだ言葉「Melting Pot (直訳:「溶ける鍋」)」によって救われました。

鉄が高熱で溶け、混ざって一つになるように、アメリカの文化は移民による様々な文化が混合されて、さらに豊かになったものである、というコンセプトです。

「違う文化を持つことは素晴らしいことなんだ!」という新しい視点に、心の中に十数年間かかっていた霧がパッと消え、光が射してきたような暖かさを感じ、心が軽くなりました。

今年で北米生活28年になり、この記事を書いている今日、誕生日を迎えて改めて自分のことを考えてみて気づいたのです!

「私自身が一つのMelting Potなんだ!」

はっきりと「何人」とは言えない、違う文化が混合している私が私なのです。

Melting Potのアメリカで、私は自分のアイデンティティクライシスを乗り越える第一歩を踏み出すことができました。

アイデンティティクライシスから立ち直る道はまだ続くのですが、それはまたの機会にシェアさせていただきますね。

Written by 林いくえ(カナダ)

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