私がこの本を手にとったのは単純にかわいい表紙が目を惹いたのと、「翻訳」というキーワード。
海外に住んでいる以上日常的に英語を使わざるを得ないのだが、サバイバルジャパニーズ英語でなんとかゴリ押ししている感が否めない。
言われることはだいたい理解できるし言いたいことはなんとか伝わるのだが、「英語をきちんとした日本語に訳したい」という願望が止まることがない。
それは、もはや憧れと言ってもいいかもしれない。
友人の中にもいるのだが、英語をきちんとした日本語に変換できる「翻訳者」という職業を持つ人。彼らにはいつも無意識に敬意を抱いてしまう気がする。
本書の著者は翻訳者である宮脇孝雄氏。しかも「地獄」という目を引くタイトル、これは読むしかないと読み始めたわけである。
本書を開くとまず「まえがき」があり、こんな言葉が書かれてある。
「天国への道は地獄からはじまる ― ダンテ」
翻訳者というのは、外国語と自国語のあいだを行ったり来たりしつつ、泣いたり笑ったりしながら仕事をしている。その涙と笑いの間に奥深いおもしろさがあるそう。
うまく翻訳できた時の恍惚感と「やはりこう訳せばよかった」という後悔や不安、その狭間の中で翻訳者たちは文章を綴っているという。
翻訳というのはただ英語から日本語を訳せばいいというわけではなく、読んでみてちゃんと意味が通じることはもちろん、日本語として違和感なく読めるものでなくてはならない。
原作者と読者の仲立ちをするのが翻訳者のつとめだとすれば、装着感はメガネのように軽く、レンズが透き通っていた方がいいと宮脇氏は述べる。そこに翻訳の難しさがあり、翻訳者たちは苦悩するそうだ。
簡単な言葉こそ油断ができないと宮脇氏は言う。
例えば、中学生でも分かる”nurse”という単語。現在であれば「看護師」であるが、昔の小説では、「乳母」「保母」の意味が使われることが多いという。「子守り」や「家庭教師」の意味も含まれる。
有名なメアリーポピンズ・シリーズの第一作Mary Poppins『風に乗ってきたメアリー・ポピンズ』には、
“Why, children,” said Mrs. Banks, noticing them suddenly, “what are you doing there? This is your new nurse, Mary Poppins.”
という一説がある。ここは、
「『あら、みんな』と、バンクス夫人は子供たちにはじめて気がついていいました。『そんなところで何しているの?こちらは新しい家庭教師(看護師ではなくて)のメアリー・ポピンズよ』」
と訳さなくてはいけない。「家庭教師」を「看護師」としてしまうと、設定がおかしくなってしまうどころか読者を誤った方へ誘導し混乱させてしまう。
一見容易な単語でも書かれた時代や設定をきちんと把握しておく必要があるのだ。
この本は、41篇のエッセーが3つの章に分かれている。
1 章「翻訳基礎トレーニング」
翻訳ビギナーがおかしやすい単語の意味の選択の間違い、イディオム、構文のまずい訳し方など、翻訳者が最低限心得ておきたいこと。クイズのように、短い英文を訳してみる問題と解説があるので、自分なりに訳しながら読み進めるといい。
2 章「翻訳フィールドワーク」
翻訳に必要な文化、歴史、習慣、風俗などについてのさまざまな調査をした上でさらに推理をすることの必要性。米国語と英国語の違いなどにも触れてあり、翻訳の世界の奥深さを体感できる。
3章「翻訳実践ゼミナール」
実践的翻訳に触れていく。ただ訳すだけでなく「表現の翻訳」とはどういうことか試行錯誤の過程がつづられる。「英語の小説に登場する『京都弁』をどう訳すか?」なんてとても興味深い。
以上のように、本書は翻訳の世界を翻訳者の立場から見せてくれるだけでなく、ビギナーから参加できるさながら翻訳講座だ。
普段はささっと読んで分かったような気になっていても、よく理解していなかったことや実は勘違いしていたことが多くあることに気付かされる。
本書を読んで、今後洋書を読む時は知らない意味を調べながら読み進めるだけでなく、もう少し踏み込んで人物像やまわりの背景も探ってみたいと思うようになった。
Written by 藤村ローズ(オランダ)